ショウ・スズキ フロムオキナワ

よろしくお願いします

依存について

あのメッシが(あの、とはもちろん、あのメッシだ)

幼少期から過ごしたバルセロナを離れ

パリサンジェルマンに移籍したニュースが

先日あった。

 

どこかで誰かが言ってて、よく覚えているのだが、

 

「メッシはサッカー中毒だ」

 

という表現をしている人がいた。

 

例えば、よく比較される

クリスティアーノロナウド

サッカーレジェンドであると同時に

セレブで社交界にも姿を現す。

 

それに比べメッシはサッカーにしか興味がない、

というような感じだったと思う。

 

 

さて、依存について考えていた。

朝から暇なのだ。

 

 

酒、ギャンブル、たばこ、人(男だの女だの)

それから仕事。

 

ふと、自分の場合を考えて、

音楽は自分にとって依存の対象だろうか、

と思う。

 

なくてはならない、

が、

なくならないし

禁止されてもいない。

けれど、まぁ、依存の範囲内かな、

と思う。

体に悪くもない。

 

例えば、大音量でしか音楽を聴けない体で

それを毎日欲していると、

家族や近所迷惑となるが、

静かに個人的に、可能な限りで

満足する限り、問題はない。

 

ふと、こうも考える。

 

当たり前すぎて感じないけれど

たとえば空気にだって我々は

依存しているな、と思えば、

すべての生き物は空気に依存している、

と言えないか?

 

この場合は、まあ、依存というより

由来、に近いのか?

 

 

 

 

ふと、こうも考える。

 

「俺は何か夢中になれるものを探している。

 

夢中になれるものがあれば、その中にいるし

 

ない時はいつでも探している」

 

 

夢中になれるもの、それは酒ではだめなのか?

だめである。酒は大好きだが、二日酔いの副作用に

耐えられなくなっている。←結果、控酒に成功している。

 

 

 

のめりこむことが、

誰かの迷惑になったり、

自分の首をしめているのに、

やめられないのが依存だ。

 

 

つまり、夢中になって、健康にもなれて

世の中の役立つ事だと、とてもいい。

それを依存とはいわない。

 

 

女はどうか。女はいい。でもこれは

自分の力でどうにかできるものではない。

相手に心があるかぎり、依存は支配と

裏表になっていくのではないか?

それは不健康だ。

世に役立つことでもない。

 

 

 

音楽はいい。

ともすれば人に喜ばれる。

(騒音にもなるから注意は必要だが)

 

 

僕は、

 

本当はもっともっと

音楽にうまっていたい。

メッシのサッカーに対する情熱に

負けないくらい音楽と居たい。

いや、勝負ではない。

 

勝負でないとしても、 

そう居たいのなら、

すればいいじゃないか。

さいわい、誰も止めやしない。

 

なぜそれをしないのか、

 

おそらくそれは

今は考えたことを

こうして文字にして

ネット上に置いて置く事が

好きで楽しいからだろう。

 

だから夢中でそれをしていた、

それだけだ。

誰かの役に立ったか?

 

そんなことは気にする必要はない、

と思うように、考えがあらたまった。

 

なぜかは、わからないが、

そう思った。